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「でいご娘」島袋さん、父の無念歌う

「でいご娘」島袋さん、父の無念歌う 【沖縄タイムス 2011年5月14日(土)】

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北谷町栄口区民の朗読構成劇で「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を歌う島袋艶子さん=4月26日、ちゃたんニライセンター

 【北谷】「米軍に、2度も幸せを奪われた父がのこしてくれた歌。4人そろわなくても、私は歌うよ」―。4人姉妹の沖縄民謡グループ「でいご娘」のメンバーで、北谷町栄口区自治会長の島袋艶子さん(64)は昨年から、父比嘉恒敏さんの遺作「艦砲ぬ喰(く)ぇーぬくさー」を、区の平和朗読劇の中で歌い始めた。米軍の空襲で家族を失い、戦後は自らの命まで奪われた父の無念さを胸に、「艦砲」を歌い継ぐ決意だ。(磯野直)

 艶子さんが中学のころ、恒敏さんは歌三線を7人の子どもに教え始めた。親子芸能は評判を呼び、地元読谷村をはじめ、各地の祝い事に招かれるようになる。一座は父によって「でいご娘」と名付けられた。

 恒敏さんは1944年8月、最初の結婚で生まれた長男と父を学童疎開船「対馬丸」の戦禍で失った。翌年3月、出稼ぎ先の大阪で大空襲に遭い、妻と次男が目の前で防空壕ごと押しつぶされた。

 なぜ父は、家族全員の芸能活動にこだわったのか。艶子さんは「最初の家族を戦争で失い、家庭的な温かさに飢えていたのだろう」とおもんばかる。家族そろった舞台と観客の笑顔に、生きがいを感じている様子だったという。

 暗転したのは復帰翌年の73年。那覇市での舞台を終え、読谷までの帰路で起きた。宜野湾市大山で、父母らの乗った車が米兵の飲酒運転車両と衝突。母は即死し、父は娘たちの名を呼びながら4日後に息を引き取った。10月10日、くしくも10・10空襲の日。享年56歳だった。

 加害米兵の妻が四十九日の法要に来た。応対した艶子さんに指輪を見せ「あげるから『許す』と言って。そうすれば夫は刑務所に行かなくて済む」と言い放った。

 本土復帰したのに、この横柄な態度は何だ。悔しさで涙が止まらなかった。父の歌を残そう―。姉妹4人で75年、でいご娘初のレコード「艦砲」を出し、県内で大ヒットした。

 芸能活動の傍ら、栄口区長になったのは58歳。子どもたちに平和を伝えようと、沖縄戦のフィルム上映や朗読劇を企画する中、自ら「艦砲」の歌詞と一字一句向き合ってみた。

 「子孫末代(しすんまちでー) 遺言(いぐん)さな」

 反戦歌と考えていたが、米軍に2度も幸せを奪われた父の悔しさも表れている、と初めて理解した。

 これまで、1人の時に「『艦砲』を歌って」と頼まれても、「私はメインボーカルでないから」と断っていた艶子さん。「この曲だけは1人でも歌っていく。でも、64歳になって歌の重みが分かったなんて、少し恥ずかしいさ」と、照れ笑いを浮かべた。

[ことば]

 でいご娘 4姉妹(つや子、あや子、ちず子、けい子)の沖縄民謡グループ。幼いころから活動していたが1975年、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」でレコードデビュー。「南国育ち」や「豊年音頭」など、立て続けにヒットを飛ばす。活動休止や解散などを経て99年に再結成。4月に宜野湾市で開かれた東日本大震災チャリティーコンサート「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」にも出演した。

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  1. 2011/05/15(日) 06:54:45|
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